2005 年 8 月の履歴(もしくは日誌)


2005 年 8 月

8 月 25 日

ロボットと共感エミュレーション

友達に愚痴を聞かされたとします.ぼくの反応とロボットの反応がまったく同じだったとしても,ロボットは人間と同じ心を持っているわけでは無いでしょう.そしたらロボットは不誠実なのでしょうか.実はぼくの反応も論理的推論や経験則から導きだされた結果だったらぼくも不誠実なのでしょうか.共感が強い人は愚痴を言いたい相手に共感して自然に適切な反応ができるけど,共感が弱いと自然にというわけにはいかないと思うのです.こんな話題で何度か書きましたがわざわざ共感しなくても、単に相槌を打てばいいだけの話ではないの?という意見がありました.今回はこのような認識と共感の弱い人の現実がどれくらいずれているかをお話しましょう.

友達に愚痴を聞かされたとします.もし共感がすっごく弱かったら,その友人が自分に対してその話をしている意図が分かりません.自分には関係ない話をどうしてその友達がしているのか分からないのです.

ここで相手の立場で考えることができれば,自分が相手にこのような話をするならどう考えているだろうというシミュレーションを行うことができます.でも「自分が相手の立場なら」っていうところが問題です.なぜなら,共感を求めて愚痴をいう心情を理解できていないので,相手が共感を求めて愚痴をいうという事が前提から抜け落ちているのです.共感を求めていると仮定される事はないので間違った仮定がされます.相手はきっと問題を抱えていて,その問題の解決方法を求めてぼくに話をしているに違いない.

それで問題解決の為にいろいろ考えたり,相手の話に反論したり,相手と異なる視点からの意見を述べたりと,あれこれ見当違いな事を言ってしまいます.愚痴を聞いてほしいだけなのに,「それはその時にこのような行動をしていれば避けられたのではないか.」とか「もっと違った見方があって,そのように考えれば腹を立てるような話ではないよ.」とか言われたらどう思いますか?

ちなみにぼくはそういう受け答えをするのが普通でした.今でもそういう受け答えをしがちです.

そして経験と学習がすすんで,相手が愚痴を言っているときは実は自分は意見を求められている訳ではないしアドバイスを与えたりする必要は無いのだということが分かってきます.

そうして経験と学習を積んで,相手が愚痴を言って来た時に,「もし自分が愚痴を言うような人間だった場合ならどうか」という前提条件をたててシミュレーションを行います.これは最初の「自分だったら」よりも「愚痴を言うような人間だったら」というように,想定モデルがより相手に近くなるので,より正確なシミュレーションができます.そのシミュレーションの結果から,より適切な対応を検討します.結果として,自分の意見を言ったりしないで,単に相づちをうちます.

さて共感の強い人だとどうでしょう.相手が愚痴を言って来た時に,どうしてこの人は自分にこんな話をするのだろうなんて疑問に思う事はありません.自然に相手に共感できるからです.また自分が相手の立場になって考えた場合も,ひどい勘違いは起こりません.ちゃんと相手に共感してより正確に相手の立場で考える事ができるからです.

愚痴を言うの人の話に相づちを打つという共感する力が強い人にとって自然な行為を共感性が弱い人が求められた時にはどうするのでしょうか.

共感性が弱い人は,これまでの経験と学習によって得たものを活用して,自分とは異なるタイプの人間ならどのような反応をするかシミュレーションを行い,その結果を用いて共感性の強い人がするであろう反応を模倣します.これが,共感性が弱い人が行うエミュレーションです.

注意すべきは「なにも言わない」という反応を選択するのにも,共感がとても弱い人にとっては「相づちを打つ」というのとほぼ同じ手順が必要なことです.つまり相手は自分に愚痴を聞いてほしいだけで意見を求めているのではないと理解した上で,適切な判断として「何も言わない」を選択するのです.共感が強い人が想定する人間なら当然こういう反応だろうと思っていることが,実は通用しない場合があります.

程度の差こそあれ,共感が強い人と弱い人では,このような差があります.

鉄腕アトムはロボットです.人間の心を持っているかのように見えますが,人間の心のエミュレータのような装置があって人間の心を模倣しているのです.そこで質問ですが鉄腕アトムは不誠実なのでしょうか?

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