2005 年 8 月の履歴(もしくは日誌)


2005 年 8 月

8 月 24 日

感情はどこからくるのか,どこまで自分を認識できるのか

人によって共感性が強かったり弱かったりします.共感性が弱い人は,共感性が強い人とは違った反応をしがちです.相互が違いを良く理解していれば,相手に期待できる事の範囲と程度も分かるし,相手の反応の意味も理解できるでしょう.でもそんなにお互いに良く理解していない事も多いですよね.

さてはて,相手を理解しようと努力して,相手の意図を汲み取る事を試みて,適切な反応を返す.これが自然にできるか,がんばらないとできないか,もしくは無意識にできるか,強く意識しないとできないか,無意識でもできるところをあえて強く意識して行うか.

他者からみたら,相手がどうやって脳内で処理して反応しているかまではわかりません.

ぼくは自分の心の動きや感情を追いかけてそれを意識していると感じることがあるのですが,もしかしたら同じ反応をするためにぼくは意識していることを他の人の中には無意識にする人もいるのかもしれないと思っていました.それは意識する意識市内の違いだと思っていたのですが,そうではなくて共感性の強さによって,どれくらい無意識で処理できるか,もしくは意識しないとできないかという違いがあるのかもしれないと気づきました.

もしそうなのであれば,何かの反応をするときに,自分の心や感情をモニターしながら考えて反応をするのはあざむきだと感じるのであれば,それは自分の感情をモニターしながら考えて反応することが必要な人に対する無理解なのだと思います.

共感性の弱い人が,相手の意図を読んだ上で,自分の心や感情をモニターしながら考えて反応をするとしたら,共感性が強い人とは,かなり異なる処理を脳の中でしているのかもしれません.ぼくはそれがあたかも共感性が弱い人が共感性が強い人を模倣しているエミュレートしているかのようだと思ったのです.

友達には,おのひろきは「共感したふりをしている」とかって思われちゃうよと言われたけど,自分でもどうなのか良くわからないです.なぜならぼくの心の動きとあなたの心の動きを直接比較できないし,ぼくの脳の処理をぼくがうまく理解できていないからです.

ただ,こんなことを考えているという事を伝えるのが相互理解のきっかけになるかもなとは思います.

ぼくの興味の対象は,コミュニケーションそのものではなくて,がどのようにそれをこなしているのかです.

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